lalala sunshine

〜慶應文学部を通信教育過程で卒業しました〜

外国語でものを書くということ


春が来た。。。(^○^)

久しぶりに英語でものを書く機会があった。その過程で感じることがあったので、書き残しておこうと思う。

昨今の日本って英語くらいできないとね〜みたいな風潮があるように思う。確かに世界が小さくなってるから、共通語としての英語はできた方が便利だし楽しいとは思うし、業界によっては仕事上英語わかんないと致命的みたいな、英語必須のところもある。私自身、ティーンの時に英語って楽しいなと思い、20代で留学のチャンスがあったからしてみたし、実際言葉も文化も違う人々との交流はこの上なく楽しかった。そんな経験があったから、もっと話せるようになりたい、読めるようになりたい。。。つまり、母国語まではいかなくてもそれなりにもっと英語がわかるようになりたいっていう原動力みたいのがあって現在に至ることは事実。そして、幸いにそういう経歴も仕事上ある程度は役立っていることもこれまた事実。

たまに、「英語上達にはどのような方法が一番いいの?」とか聞かれることがある。私は完ぺき日本語のみのモノリンガルで育っているから、あくまで私の使う英語は“日本語を母語とする人間が使う外国語としての英語”なので、とにかく聞いて読むことじゃないですかね?ということくらいしかいえない。まぁ、たいていの人はお隣にネイティブスピーカーが住んでますとか、会社とか身近に話す人とかいないことが多いだろうしってのがどっかにあるんだけど。そしてたまに“英語を完璧にしたい”とか言う人に会うと、頭の中が?(・・?)?となる。完璧な英語って何?

語学学校でネイティブの先生に教えてもらってたときも、「○○は物怖じせずにどんどん我々(ネイティブ・スピーカー)に話しかけるから上達が早いんじゃないかな。君もどんどん話したほうがいいよ」とか、「上達するには英語でものを考えると良いんだよ!」とか、究極には「ネイティブと結婚するといいんだよ」��(゚Д゚)とかも言われたことがある(*≧艸≦)。確かにネイティブと話せば発音も身につきやすいし、脳神経が発達してくような感じで英語の思考回路ができてくみたいな感じを覚えたりすることも事実。でもそれってやっぱり生活上不便なく、楽しくというレベルでのことのような気がする。もっと高度な次元―例えば、エッセイや論文を書くみたいなのは、少なくとも詳細なプロットは母国語で考えないと話にならないと思う。つまり、Academic Paperであれ、専門分野についてのエッセイであれ、やはり高度なロジックを必要とする書き物の場合、その高次なところでは母国語で考えないとロジックが曖昧になる。体をなさないものになってしまうんだと思う。

そんなこんなで、母国語の大切さと言うものをしみじみ感じるのですよ。バイリンガル環境で育った人たちはまた違うのかもしれないけどね。あ、そうそうネイティブと沢山話すと言うもの。これってなくても上達できるんじゃないかと思う。もちろん機会があればどんどん話したらよいとは思うけど、相手も対外国人という意識で話すから、どれだけ分かるようになるかはどうなんだろう。。。英語で書いたものを読む習慣があれば、語彙もある程度あるわけだからネイティブと話すことでそれなりに上達すると思うけど。話題も多くて楽しいと思うし。だから、自分からインプット量も増やさないと、話すって言うアウトプットもできないわけだし、他力本願でネイティブと話せば上達とかは違うんじゃないかと思ったりする。