lalala sunshine

〜慶應文学部を通信教育過程で卒業しました〜

アレゴリー


イルミネーションキレー♪( ´▽`)

大学に入るずっと前からあまり小説などは読むほうではなかった。どちらかというとノンフィクションが好みのため、国語の教科書に出てくるとか、タレント的に大々的に名前が売れている以外の作家のこともあまり知らない。理由を考えてみると、まず頭のどこかに「事実は小説より奇なり」というのが根底にあり、誰かの頭の中で作られたものよりも現実に起こっていること、また過去に現実に起こったことについてより惹きつけられるという点がある。別に社会的なことにかぎられるわけじゃない。例えば作家の曽野綾子さんのエッセイは自身の生い立ちや結婚後の生活を中心として語ったものが多い気がするんだけど、それらのエッセイからかなりいろんなことを学んだ。それって多分、作者がどこかコアになる哲学的なものを持っているから、ブレもないし、こちら側もすんなり受け入れられるんだろうと思う。そんなこんなで曽野さんの作品はかなり読み漁ったけど、正直エッセイしか読んだことはない。

物理的な面もあるかもしれない。フルタイムで仕事をして家のこともして、などとなったら当然時間も限られてくる。そうすると貴重な読書時間は必然的に興味のあるノンフィクション(ルポルタージュとか新書とか)にあてられる。フィクションはどうしても私の中では娯楽のカテゴリーに分類されるので、その意味でも小説的なアトラクション、娯楽は2時間ほどで終わる映画や舞台、あるいは漫画を好んでしまう。しかしながら、そういうタイプの人間でも、大学に入り文学部の学生となった以上はある程度の文学もやらなきゃならないわけで、ここのところ試験も兼ねて最低限の文学(に関するもの)も読んでいた。そこで最近学んだ新しい言葉が「アレゴリー」だった。

アレゴリー」とは、テキストによれば「道徳や宗教などに関する抽象的な概念を寓意的に表す手法」らしい。その定義から行くと中世の絵画なんかもアレゴリーだと思うし、物語で言えばギリシャ神話なんかまさにそう、アレゴリーの塊だと思う。いや、逆かな。識字率が低い時代に絵を通して宗教を語ったように、スマホ時代には漫画で倫理を語るのが良いのかも・・・。さて、同神話の中に、テーバイの賢王・オイディプスの娘のアンティゴネの話がある。彼女は父が王国を去ったのちに、王位を取り合って争い死んだ兄たちを葬ってはいけないという法律に背いて埋葬した。埋葬しないと魂が浮かばれないと考えられていたからだ。そして法律を犯したとして新王(オイディプスの妻(で母)の弟)にそれを責められた時に、「その法律は人間がつくったもの。その前に古くから定められた、何人も肉親の遺体をうちすてるべからずという法律がある。私はそれに従います。」といって死罪になったという物語があった。自然法のことを言ってるんだと思う。

そう考えると、こういった昔の神話やおとぎ話のようなフィクションはアレゴリー含みまくりだなと思うし、人間形成期である小さな子供や10代の時にこそ、たくさん読むべきものであると思う。物語を読むことで倫理観が軸として備わっていくだろうから。痛ましい事件が後をたたないのも、もしかしたらそういった基軸を養う機会がない、または少ないということなのかも。

そんなことを学べたのが、最近文学を取った収穫かな。まぁ、文学部で卒業を目指している以上全く無関係ではないから、卒論終了まではフィクションもぼちぼちアカデミックな視点で読むこともあるのだろうと思う。けど卒業したらまたフィクションを読まなくなる可能性は高いな。。。お金のことみたいな生活にまつわる勉強たくさんしなきゃなんないし。